2015年1月13日火曜日

そこに知性はあるのか

Anyone who conducts an argument by appealing to authority is not using his intelligence; he is just using his memory.

(権威によって議論を進めようとするものは、知性ではなく、記憶を利用しているだけである。)
レオナルド・ダ・ヴィンチ


「引用とは、簡単にいえば、権威に頼ることである。これも説得力を高めるための技術だ」
野口悠紀雄.


しかし、権威を利用するならば、正しく利用する必要があるし、
恣意的に利用している人にも気をつける必要がある。


「「ある統計によると、喫煙者の九九%が家庭内暴力をふるった経験があるという。したがって、……」と書いてあったとする。これはいかにも論証の形をしているように見える。しかし、読者が「その数字、本当かよ」と思っても、それを自分でチェックする手がかりがなければ、キミは自分に都合のいい統計や調査結果をデッチあげて、いくらでも好きなことを「論証」することができてしまう。

   あるいは、「カントは、動物の幸福を考慮することは理性的動物である人間の従うべき、最も基本的な定言命法の一部だと述べたという」(ウソ。ホントはそんなこと言ってない)、としか書いていなかったなら、読者は「え、カントってそんなこと言ってたっけ? どこに書いてあるんだ?」と思っても、それをチェックできない。もし、こういうことが許されるなら、またもやキミはやり放題だ。

   つまり、論文は第三者によってチェック可能である必要がある。これが論文が客観的でなければならないと言われるときのもう一つの意味だ。自分がどのような素材(調査、統計、テキスト、先行論文)を使ったのかを明示し、それがどこで手に入るのか、そのどこを使ったのか、第三者が必要とあればいつでもチェックできるように、こうしたことを論文の中にきちんと示しておかなくてはならない。論文に、引用の仕方や参考文献の挙げ方など、うるさいしきたりがあるのはこのためだ」(p. 47)

戸田山和久『論文の教室 : レポートから卒論まで』新版

参考文献はなぜ必要か:その目的と機能
http://www.ics.hit-u.ac.jp/jp/library/bibref.html


そもそも、それはその人の思考から生まれたものなのか、実証研究の結果なのか、
都合のよい理想を語っているだけなのか、事実に基づいた冷徹な評価なのか、
文章を読み解くときには常に意識しなければならない。



0 件のコメント:

コメントを投稿